夢の箱
「はぁはぁはぁはぁ…」
足が重い。いや、足どころか体全部が重い。空気を吸い込んでも肺に入った感覚がない。穴が空いているかのようにすぐに漏れ出し、喘ぐように口を動かす。乾燥した唇がパリと音をたてて離れた。
「水もろくに口にしていないな…」
口から落ちた言葉は自分で想像したよりも力なく乾いている。脳裏に限界という二文字が浮かぶが、頭を振って追い払った。
「まだ…まだだ。私はまだ何もやってない」
どうしても逃げ延びなくてはならない。逃げ延び、その先にやるべき事がある。それを成さぬうちに死ぬことは許されない。ましてや自分から諦めることなどあってはならない。
「逃げ切ってやる」
もうすぐ暗くなるであろう空を見つめた。そこはすでに赤く染まりきっていて、愛おしい月が顔を出すのも間近だと告げている。街が闇に抱かれれば脱出する好機も生まれるだろう。夜はいつだって味方だった。「早く」と呟いて膝を体のほうへ寄せ、しっかりと木箱の陰へと身を隠した。座り込んだ石畳の冷たさが体力の減った体から体温を奪っていく。身に纏った生地の粗いマントだけでこれからをやり過ごせるだろうかと考える。すぐに確実に不可能だという結論にいたる。冬は美しいが、決して優しくはない。闇に紛れて、脱出する前にどこからか盗まなくては…。
「馬鹿な。これ以上、街の人に迷惑をかける気か。私は」
街の者には迷惑をかけられない。例え死んだとしても。しかし、死ぬわけにもいかない。そっと手中に収めた銀の短剣を見つめる。銀というやわらかい金属で出来ているため、実用向きではないが、その分装飾として特化している。素人目に見ても見事な鳥の細工に、その瞳に嵌められた赤い宝石。売れば幾ばくかの金銭に化けるだろう。それこそもっと質の良いマント。その他の防寒具に、旅に必要な地図・コンパス・ナイフ・保存食なども揃うに違いない。売るべきだ。しかし、誰に?誰が買ってくれるというのだろう?
「八方塞がりか…」
思い切り笑い出したい衝動が腹の底から突き上げてきた。本当に笑ってしまおうか。そうすればすぐに街の誰かが見つけ、私を囲み、捕らえるだろう。そのまま裁判すらされずに処刑され、死体は野に晒されて、飢えた獣の糧となる。他人に害しか与えられない私だったが、死体くらいは獣の命を繋ぐ役に立つのは幸いだ。
「………っ!」
唇をぐっと噛み締める。泣くな泣くな泣くな泣くな泣くな!泣いてどうする。泣いてどうなる。私が泣いたとて、どうにもならぬ。私のせいで涙を落とした人が何人いると思っている。私の涙など何の慰めにもならない。ただの水分と体力の無駄だ。そんな暇があるのなら生き延びる方法を考えろ。生きて償う方法を見つけ出せ。私にはその責がある。
ヒヤリとした風が体を撫で、促せるがままに空を見上げると闇が支配し始めていた。夜は味方だ。味方がもうすぐやってくる。何とかなるのだ。星の瞬きが合図するように、そっと木箱の陰から体を移動させる。少しでも城門に近づいておく必要があった。人があまり通らない裏路地の様子を伺い見ると好都合な事に誰の姿もない。ここから3ブロック先まで行けば、城門までは何とかなる。そう自分に言い聞かせ、建物の影から一歩踏み出そうとした時だった。背後でコツリと足音が鳴る。
「誰だ?」
低い声が頭の中で響き。その声が私を絶望の暗闇へと引きずり込んだ。
「ん…」
自分の声で意識がゆっくりと浮かんでいくのを感じる。
柔らかく、滑らかないい心地だ。何だか良い香もする。こんな安らかな気持ちをどれくらい味わっていなかっただろう。二度と味わえないものだと思っていたのに。…やはり私は死んだのだろうか。そうでなくてはこの心地よさの説明が付かない気がする。しかし、私が天国にいけるはずはない。では、夢か。死ぬ前に見ている夢。幸せだったあの頃の記憶が感じさせてくれている夢のような幻覚。だとしたら、目を開ければあの人の姿を見ることが出来るかもしれない。変わる前のあの人の姿を。もしかしたら、この夢が覚めてしまうだけかもしれないけれど。それはそうあるべきだ。夢などに逃げず、私は現実を受け入れて死ななければならないのだから。
重いまぶたをゆっくりと開ける。最初に確認できたのは、夢ではない絹のシーツの感触。そして、見知らぬ男の寝顔だった。
「!?」
驚いた。というレベルを遥かに超えた動揺が一瞬にして訪れる。声を出すことすら忘れ、体をうごかし距離をおくことも出来ない。口だけがアワアワと動いているかもしれないが、それだけだ。傍から見ればただ呆けてその男の寝顔を見つめていた。
まず男の特徴として何よりも目に付くのは見事な赤い髪。紅蓮の長い髪が渦を巻き、白いシーツに流れる様に目を奪われる。そして、その髪に負けないくらい目立ち又誇っているのが黒の刺青。一色の漆黒で腕・胸・額に施されたそれは正確な対比を見事に描き出している。華美ではないが、派手な男だ。一度、チラリと見ただけでも忘れられそうもない。やはり、知らぬ。
その知らない瞼がピクリと動いた。
(起きる!)
反射的に身を起こし、寝台を抜け出そうとした。しかし、それは私の腕などでは到底かないそうにもない太い腕によって阻まれる。首に回された二の腕に先ほどまで見ていた刺青が描かれていた。背に暖かい体温を感じる。
(どうしよう。どうしよう。どうなるんだ)
掴まった事実に再び鼓動が早まる。少しだけ忘れていた恐怖が胸を占めた。味わってしまった安らぎに心が弱まり、感情のまま涙を流し、命乞いをしたいとさえ思ったその瞬間。
「ふあぁぁぁぁぁぁぁぁ…。あーーーーー、よく寝た」
「…へ?」
毒気を抜かれるというのはこういう事を言うのだろうか。いや、多少違う気がするがそれくら間の抜けた言葉のように感じたのだ。いつものフードを被っていないのも忘れて、思わず顔を見上げてしまった。私を片腕だけでその場に縫いとめる男は、再びこみ上げてきた欠伸をかみ殺してから、ようやく真紅の瞳を私に向けた。
「やっぱり見間違いじゃなかったな」
男が呟き、私を抱き寄せた。おかげで私は足が置いてけぼりになるような変な態勢となったが、それにも構わず再び呆けていた。だって、久しぶりに見たのだ。人の笑顔を。私を見た瞬間、男があまりにも嬉しそうに笑うから。だから、男の次の行動を止めることなど思いつかなかったのだ。
「アメジストの魔女。俺のものになれよ」
という夢を見た(真剣)
色有り、音無しの2次元。視点はちょうどテレビを見ている感じで、コロコロと視点が変わってた。