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「ただいま」
「お、おかえりなさい」

久しぶりに予定のない休日を満喫中に、帰宅司令が義姉さんから直々に下った。メールを見なかったことにしようと思って、ポケットへ再び突っ込んだところで着信が入り、女の直感という恐ろしいものの片鱗を見たような気がする。さすがにそれは無視するわけにはいかず、今、こうして大人しく帰ってきたけであるが…。

癖のある肩までの黒髪。ぬけるような白い肌。形の良い薄い唇。光の加減によって、菖蒲、菫、月白とグラデーションを作り出すアメジストの瞳。華奢な体から伸びるのは似合いの細い手足。滅多に見ないほどの美少女が、少し短めの眉を困ったように寄せて、玄関にて俺の帰りを待っていた。グラマーな女性も好きだが、スレンダーな女性もまた魅力的だ。成長したら、さぞかし見ごたえの美人になるだろうなぁと思って、じっくりと鑑賞でもするかのように眺めてしまう。いや、眼福眼福。いいもん見たなーって、おい。

「あんた、誰?」
「おっかえりー、修兵。ルキアちゃん、可愛いでしょ?」

パーンと意味なくクラッカー片手に、どう見ても隠れて待機していた義姉さんが飛び出してきて、するりとルキアちゃんとやらの肩に手を回す。聞き覚えのある名前だったが、こんな美少女を自分が忘れてるとも思えず、どこで聞いたのか記憶を辿りながら靴を脱ぐ。義理さんにぎゅうぎゅうと抱きしめながら、「駄目でしょ、お兄ちゃんって言わなきゃ」と言うのに、更に困ったような顔をするのを不憫に思った。

「乱菊さん。ルキアが困ってるって」
「恋次、帰ってたのか」
「ただいま、修兵さん。そんで、お帰り」

すでに心得たもので、箒とちりとりを持った恋次が現われて、さっさと廊下に散らばったクラッカーの残骸を片付ける。その可愛くない顔をみて、「なーによぅ」と口を尖らせる義姉さんの胸中で、必至になってもがいているルキアちゃんの名をどこで聞いたのかすぐに思い出せた。初めましてと手を差し出せば、義姉さんへの抵抗を諦めたのか、こちらに向き直ってペコリと頭を下げてから、こちらに手を伸ばしてきた。

「朽木ルキアと申します。お邪魔してます」
「どうぞごゆっくり。俺、修兵。大学生な。よろしく、ルキアちゃん」

握り返してきた手は小さく、指も細くて、何だかお人形のような娘だと思った。




"ないすとぅーみーちゅー"















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女の子なら、可愛いもの綺麗なものが好きなのは当然だと思う。だから、対象が可愛くて綺麗であれば、同じ年くらいの女の子であっても例外ではなく、私は一目でその子を好きになった。

「始めまして!桃です」
「始めまして。朽木ルキアです」

にこり、僅かに首を傾げてほほ笑む、見た目よりも大人びた仕草がまた綺麗だ。話には聞いていたけど、本当に綺麗で可愛い。同年代の女の子と比べても小柄な部類に入る私よりも、小さく華奢で、肌が白くて綺麗で、顔立ちを幼くしている大きな瞳は理知的な輝きを持っていて、何だかとっても不思議な雰囲気を持っている。阿散井君と同じ年ということは、私と同じ年で間違いない筈なのだけど、それを信じ切ることが出来ないくらいにはミステリアス。

いいな、いいな、阿散井君。今度、絶対に子供の時のアルバムを見せてもらおうと思いながら、ソファにゆっくりと腰かけた。

「制服…、学校に行かれてたのですか?」
「同じ年だよ?私たち。普通にお話してくれると嬉しいな」
「そう、ですか?」
「そうか。では、桃。私はこのように少し変わった喋り方をするが、いいだろうか?」

なんていうか侍?忍者?
思わずきょとんとしてしまったけれど、照れたような笑顔が可愛かったので、わたしもにっこりと笑ってから頷いて、決まりきっている答えを大きく言った。




"もちろん!"















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帰宅という判断は、早計だったかもしれないと、家の門に手をかけたところで思った。何やら家が騒がしい。というか、そんな領域を通り越し、かなり煩い。バタバタと数人が家の中を駆け回る音、時折、発せられる姉の大きな声。その声が喜々とした響きを放っていて、ろくなことが起こっていないと経験上断定できる。

家はすでに目の前。部屋に戻れば読みかけの本もあるし、友達から借りた携帯ゲームもある。この退屈で退屈で仕方ない時間から解放されることは間違いない。貴重な休みの日を無駄にせずにすむ。

だが、このまま家に入ってこの騒ぎに巻き込まれない保証はない。あの姉が巻き込むと決めたら、どんなに拒否しようと無駄なのだ。そうなれば、何が起こっているのか分からないけれど酷く疲れることになるのは目に見えていた。暇や退屈すら享受することは不可能だ。

「戻るか」

のんびりしたいのだ、ゆっくりしたいのだ、休みの日くらいは。一週間のうちに一日くらい、姉の我儘から解放されてもいいじゃないか。 常々、考えていることを繰り返し考え、くるりと家から背を向けた。その瞬間、バタンと玄関が開き、振り返れば、誰かが飛び出してくるところだった。

「冬獅郎!確保!!」

なぜ、とっさに反応してしまうのだろうか。決して自分の意志ではないのに、体はすぐに反応して、目標と向かい合った。小柄な女だ。元から大きいだろう瞳が、驚いたように見開いたことでますます大きく見える。そして、その瞳で俺が立ちふさがっているのを見て、庭先へ方向転換しようと振りきった腕に、手をのばす。

(あ、まずい)

腕を後ろにひかれた反動で、前に進もうとしていた体がグラリと揺らぐ。しかも受身が難しい方へ、その前にこいつが受身が出来るかどうか。 回り込んでからだを支えるには腕の長さが足りない。とっさに思いついたのは、更に腕を引いて、自分がクッションになることだった。

「い、いたい…」
「いてぇ……」

強かに背をブロックに打ちつけた。バランスを崩してコケなかっただけマシだが、人、一人を受け止めた衝撃はでかい。痛みに目をつむって耐えていると、自分を覆っていた体重がガバと動いた。「す、すまぬ」と動揺した声を聞いて、何て間抜けな顔をしているんだろうと、客観的に思う。大きな紫色の瞳が間近で、こちらを覗き込んでいた。

最近読んだ幻想小説で、大きくて濡れた黒い瞳で、人の魂を奪ってしまうモノが登場した。ストーリーはどちらかと言えば陰鬱で、あまり好みではなかったけれど、魂を奪い涙を零す場面の描写が印象的だった。

からっぽになった人は、からっぽの表情を浮かべ、ソレを見つめる。からっぽの表情はどこか間抜けだ。ただ目を開き、だらしなく僅かに口も開く。そうして、奪われたことに気づかず、与えられた涙を無下にする。

涙を流す表情からは程遠い、不安そうな顔をしているが、瞳は濡れているようにきらきらとしていた。その中に、まだ間抜け面の俺が写り込んでいる。だけど、からっぽの表情からは程遠く、大丈夫だと答えた時に見た安堵の笑顔に、知らなかった感情を教えられた。




"なまえまではまだ知りなくないよ"















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笑顔。満面とはいかないが、一般的には十分に笑顔に入る範疇の表情だ。そう、ルキアは笑顔を浮かべている、一応は。

「あー、ルキア?」
「なんだ恋次?」

にこ、と笑みを浮かべたまま、返事が返ってきた。何も知らなければ、可愛い仕草だと思うくらいだろう。だが、このひしひしと伝わってくるオーラは間違いなく不機嫌なもので、その笑顔が逆に怖い。

失敗したかとも思うが、次の瞬間そうでもないか。と思いなおす。

乱菊さんのお遊びによって、結いあげられた髪に、色づいた唇に、煌びやかになった服。ルキアは昔から着飾ることを好まないし、強要されれば拒むことさえある。着飾りたくないルキアと、ルキアを着飾りたい乱菊さんの攻防は、久しぶりに見ても鮮やかなものだった。俺が覚えている限りでは、勝率はほぼ50:50。もし勝ち越しているとすれば、乱菊さんのほうだろうという程度。

久しぶりの再会の後に繰り広げられたバトルは、乱菊さんい勝利の天秤が傾いたわけだが、ルキアの機嫌も一緒に傾いた。下降へ。

どうせなら、今日は二人に楽しい想いをして終えてもらいたかったので、もう少し乱菊さんに釘をさしておくべきだったか。そう反省していた時に、ルキアの見せた表情が、そんなものをすぐに吹き飛ばした。

「飯、うまかったろ?」
「ああ。乱菊さんは腕を上げたな」
「最初に比べれば格段の進歩だぜ。あー、こんな時間か。ぼちぼち帰らねぇとな」
「…終電前に離してもらえるのか?」
「帰るって意志表示しとかねーと。終電ですら逃すぞ、このまんまじゃ」
「そう、だな」

ああ、また同じ表情。ずっとその顔をしていればいいのに、と思って、手を伸ばして指で頬をなでた。すると眉を潜め、不審そうな顔をするので、軽くつねってみる。

「間抜け面」
「なんだとっ!」

ご丁寧に腰を捻って繰り出された拳は、見事に鳩尾に入り、俺を悶絶させるには十分な威力を発揮してくれた。ついさっきまで、ルキアが眩しそうに眺めていた4人がこちらを振り返り、なにやってるんだと口ぐちに言い、ルキアと一緒になって笑う。その声を聞いて、俺の口の端も上がった。




"欲しかったもの。手に入ったもの。"















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帰りの新幹線は、恋次が寝ていろと言ったので遠慮なく寝かせてもらった。久しぶりに会った懐かしい顔に舞い上がりすぎたのか、重たい疲労感が体にのしかかっていて、意地になって無理をするには相手が悪く、睡魔はあっさりと私の意識をさらった。

揺れる車内で、私は私の夢を見る。

夢の中の私は子供だ。今、住んでいる部屋で一人目覚め、顔を洗い、前夜のうちに用意されていた朝食を温め口にする。味の余りしない朝食を半分も食べきらないうちに、ゴミ箱へ捨て、食器を水に付けて、身支度を整える。それから玄関で靴をはき、何も言わずに部屋を出、自分でカギを閉める。時刻はかなり早い。

もう、この年から習慣づいていたのか。と、思い出せなくなった切っ掛けを辿るまねごとを試みた。同じマンションに住む、同じ年頃の子供が、母親に見送られるのを見るのが、明確にキツイと感じたのは、一体いくつのことだったのだろう。

私が考えている間に、夢の中の子供な私は通学路をまっすぐに歩いていき、やがて教室の前へとたどり着く。扉に手をかけた瞬間に、ちょっとだけためらい、だが、すぐに振り切って扉を開けた。朝日が降り注ぐ教室の中に、まるで夕日のような髪を持つ少年の姿はなく、静かに扉を閉めると、誰もいない教室で一人、私は本を読み始めた。




"ひとり?…ひとり"



[21.11.23]