舞台外



「何故、貴様が不機嫌になるのだ」
「何故、お前の瞳の色を変えなきゃならない?」

そう言って目の前の変人はムッツリと黙った。阿近が咥える煙草の煙が光に浮かんでは、やがて霞んでいく。今いるのはあの薄暗い実験室ではない。瀞霊廷内でも指折りの料亭である。見事な細工が施された机の上には、美しい青磁の湯飲みが三つ。阿近の前と私の前、それと今は座布団しかない私の隣に一つずつ。
静かな空気の中でチチチと小鳥が囀った。
この険悪な雰囲気に何と暢気な事だと、丸く切り取られた空をそっと見つめる。雲ひとつない空に緋色の小鳥が飛んでいるのを見つけて、心底翼があったらどんなにいいかと思う。しかし、私には翼はなく。あるのはちっとも筋肉のつかない、己から見ても情けない両の腕。しかも、今その腕は、翼に見えなくもない白地に赤い牡丹の咲いた着物の振袖に包まれていて、とても羽ばたく事などできはしない。溜め息をついて窓から机へと瞳を向けると、目の端に白いレースが入る。ゆるやかなカーブを何連も描く髪。松本殿の手によって、その一筋に結わえられたリボンだ。ふいに『頼んだわよv』という言葉と。一緒に向けられた大輪の笑顔を思い出す。

ゾクリとするほどの。

「阿近。無論、タダでとは言わぬ。もしも貴様が、カラーコンタクトを作ってくれるのならば礼はするぞ?」

手段を選んでいる場合ではない。私はどうしてもそれを作ってもらわねばならないのだから。立ち上がり、阿近の傍によると咥えている煙草をゆっくりと抜き取る。じっとコチラを見上げてくる阿近の瞳から視線をそらさずに、煙草を灰皿に押し付けると、ゆっくりと両の手でその頬を包んだ。

「礼?」
「ああ」

食いついてきた手ごたえに笑顔を浮かべる。頬から首へ、首筋を撫でるように手を動かし両手をまわして組む。阿近の肩に体重を預けるように座ろうとすると、すんなりと膝の上に案内された。…何だか最近、こういう姿勢に慣れてしまった気がするぞ。ツと阿近の細い顎を指でなぞる。

「私が………、そう私が・だ。阿近。貴様に礼をしてやろう」
「…」

輪郭をなぞっていた私の手を阿近がゆるりと掴み、口付けようとする。そこからすばやく手を引き離して、阿近の唇からの逃れ、そのまま再び両腕を阿近の首に回す。そのまま阿近を抱き寄せ、耳元に口を持っていく。

「作る。と言え、阿近。そしたら…」
「そしたら…何だ?」

そしたら………………………そしたら、そした…ら。何だっただろうか?
一瞬にして頭が真っ白になる。えぇと、松本殿からこの後は何と言えばいいと教えられたのだったか。思い出そうとすればするほど、ソレが遠ざかっていくのが分かる。内心、ダラダラと冷や汗が流れているのだが、表面上はまだ余裕の態度を崩さずに保つ。助け舟は期待できない。ここは自分で何とかするしかないのだ!

「そしたら………。そうだな。もう少し貴様に付き合ってやろう」

しばしの沈黙。やはり失敗しただろうかと息を呑みかけたその時、阿近が薄く。だが、ハッキリとわらってその言葉をくれた。

「分かった。作ろう」

それと同時に世界が反転する。何故、急に阿近が私の上にいるのか理解できないうちに手が伸びてくる。この時になってようやくと言うべきか、それともこんな時にと言うべきかは分からないが、阿近がいつもの白衣ではなく、深黒の着物を着ている事に私は気が付いた。それと対比する白い手が畳の上に広がる髪を撫で。

「長いのも悪くないな」

と言ってまたわらう。そのわらった口が、私の首筋まで降りてきて、べろり。と舐めた。

「!!!」

あまりの感触に声が出ない。柔らかなものがくすぐったく触れ、その間から厚くてねっとりとしたもがゆっくりと首を這う。叫びたいのに、弛緩したように体には力が入らず、手足はビクリと痙攣を起こす。阿近の唇が首から顎へ、顎から頬へと上がってくる。ぞくぞくと背筋へ伝わる感覚が増していくのに耐え切れずに目を瞑った。
カチ。と阿近の歯が噛みあう音を間近で聞く。

「はぁい、そこまで。後は作ってからにしてちょうだいね?」
「ま…松本殿?」

気が付けばいつの間にか戻ってきた松本殿の腕の中。元凶だということも忘れて、夢中で松本殿の着物を掴む。先ほどの感触を忘れようと懸命になり、二人が何事かを会話しているのは分かるが、内容が頭に入ってこない。しかし、後日その事をとても後悔するとは、この時はまったく考えつきもしなかった。