舞台裏



「おはよう、青玉。今日もいい天気だよ。見てごらん」

そう言って、檜佐木殿が私を抱きかかえたまま、バルコニーを模したセットのほうへと歩いていく。私は、ふわふわとした浮遊感を無視して、何も感じていないように振舞わなければならない。

「ああ、いい風だね。………今日も声を聞かせてはくれないのかい?」

微笑んでいた檜佐木殿が寂しげな顔を見せる。
よし、今だ。

「いいえ、いいえ。兄さん」

ちょっと小さめの声、生まれて初めて出した声なのだから。ゆっくり、確認するように発音せねば。

唇一つ動かすのにも気を使いながら、驚いた表情を作る檜佐木殿を見つめる。先ほどの悲しそうな表情といい、今の驚いた表情といい、檜佐木殿は感情を表すのが上手いな。私では無理だ。人形という、単純な感情表現しかもたぬ役で良かった。

「あぁ、嬉しい。やっと、やっと兄さんを呼べる。兄さんを振り向かせられる。嬉しい、嬉しいわ」
「サファ…青玉?」
「ええ。そうです。私です、兄さんに頂いた名前は青玉」

信じられないといったように瞳が見開かれるのを私は間近で見る。
芝居を見るときは実は役者が一番、特等席かもしれない。

「今日は何という日だ!こんなに嬉しい日が他にあるはずがない!青玉、青玉。君が喋っているんだね。君の声なんだね」
「ええ、兄さん。私も嬉しいわ。でも、とっても悔しいの。まだ頭以外は私の力では動かせない。兄さんに触れたいのに」

私は肩を僅かに震わす。
これがかなり難しい。一部分を止めて、一部分を動かすというのは身体上無理な話ではないだろうか?

「大丈夫だよ、青玉」

そっと檜佐木殿が私を座らせる。私はまだ首から下は殆ど動かせないので、体は檜佐木殿のなされるがままだ。手をとられ、口付けられても反応してはいけない。…これがたとえ台本に無い行動だったとしても。

「目を閉じて…」

「え」と口に出しかけたのを何とか飲み込む。おかしい。ここは「目を見て」ではなかっただろうか・・・。しかし、今は本稽古中なのだ。本番さながらにアクシデントがあったとしても、どうにか対処せねばならない。

困惑しつつも私は言われた通り、瞳を閉じる。

「ほら、こうすればいいだろう?」

良かった、ここは台本どおりだ。ここでそっと額を付けて場面転換のはず・・・ん?

予想していなかった力が顎に加わる。多分、人差し指だろう、それでクイと上に顔を上げさせられる。こんなのは練習中に一度もなかったのに―。

「え?」
「…いってぇ!!!何するんスか、乱菊さん!」

いつもの檜佐木殿の口調に目を開ける。
眩しいスポットライトの光が目に飛び込んできて、視界が一瞬だけ白く染まる。ソコから目を外せば、舞台下の松本殿に向かって、檜佐木殿が台本を右手に文句を言っていた。

「よけいな事すんじゃないわよ、修兵!」
「こんくらいの役得があっても、いいと思うんですけど」

キャンキャンと吠える二人を困った顔で見ている雛森殿に尋ねてみる。

「一体、何が起こっていたのですか?」
「…朽木さん。ちゃんと私達が守ってあげるからね」

そう真剣に告げられ、私は追求する事ができないまま、とりあえず礼を述べた。